愛〜直江兼続
御館の乱

 天正6年(1579年)与六19歳の頃、上杉軍は新年早々、北条攻めの為に出陣の準備をしていたが、北条より謙信の上洛を助勢するという知らせがもたらされ、上洛作戦へと切り換えられた

 3月15日出陣と決定され、準備もほぼ終わった3月9日、謙信が突然倒れ昏睡状態に陥った

 宿将達が狼狽する中、いち早く行動を起こしたのは樋口兼続であった

 謙信の部屋周辺の警固を厳しくし、冷静に病状を見守り、死の近い事を見極めると、景勝を謙信の枕元に呼び、意識のないはずの謙信が後継者は景勝であると語ったと謀ったのである。その直後に謙信は息を引き取った

 しかし、景虎指示派は納得せず、春日山城二の丸に立て籠もり、実家の北条家や武田勝頼に救援を求めたのである

 それを知った兼続ら景勝派は二の丸に攻撃を加え、景虎派はたまらず脱出し、直江津の御館(おたて)に逃げ込んだ

 この景勝と景虎による後継争いは「御館の乱」と呼ばれる

 武田勝頼は要請に応じ、国境まで兵を進めたが、景勝は和平の使者を送り、東上野の地と黄金一万両を贈り交渉を成功させた

 9月になると北条軍が越後に侵攻を開始し、樺沢城(南魚沼市)などを占領し、景勝勢は風前の灯となったが、冬の訪れを前にして、一部の兵を残し主力は帰国した

 勢いを盛り返した景勝派は翌年、天正7年(1579年)2月に大軍を御館に進め、猛攻を受けた御館は3月17日に落城した

 敗北した景虎は兄のいる小田原城に落ち延びようとし、途中の鮫ヶ尾城(妙高市)に立ち寄ったが、城主・堀江宗親の謀反にあい自害した。享年26歳であった。かくして御館の乱は景勝の勝利に終わった


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