天正10年(1582年)この頃、重臣となった兼続が直面したのは、織田信長による越後への侵攻だった
武田勝頼を滅ぼし、その勢いで押し寄せてきたのである
北陸からは柴田勝家、信濃からは森長可、関東方面からは滝川一益と、もはや打つ手がない状況であった
しかし、越後を侵攻していた織田軍が突如として引き始めた
本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれ、その光秀も羽柴秀吉に討伐されるという事態が起こっていたのであった
天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉が賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を撃破し一気に天下人に近付いた
景勝は賤ヶ岳の合戦の折に、秀吉に出陣の約束をしていたが、越後国内が不安定な為、約束を果たさなかった
その為、秀吉の怒りに触れ人質を出す事を要求された
景勝は渋ったが、兼続の必死の説得により首を縦に振ったのだった
天正14年(1586年)には石田三成を通して景勝に上洛を要請してきたが、それに応えて5月に上洛の途についた
途中、石田三成が出迎え、景勝一行を先導して上洛を果たし、大坂城にて秀吉に謁見した
この時、後に天下を揺るがす兼続と三成が初めての出会いだった
景勝は秀吉に歓迎され、官位まで与えられ帰国したが、上杉家が秀吉に服従した事を意味し、豊臣政権に組み込まれたのである