越後に戻った景勝・兼続は天正9年(1581年)より続いていた、新発田城主・新発田重家の反乱を静め、越後を統一した
天正15年(1587年)春、反乱鎮圧の報告の為、景勝・兼続は2度目の上洛を果たした
この功によって、景勝を補佐している兼続も秀吉に認められ官位を授かった
天正18年(1590年)関東一円を治め、秀吉に従わず抵抗を続ける北条氏の討伐の令が下った。出陣要請を受けた景勝・兼続も兵1万を率いて出発し、前田利家や真田昌幸と共に各城を攻略した
小田原城を包囲され、7月に降伏し、上杉家と関係が深かった北条氏は滅亡した
文禄元年(1592年)北条氏を討伐し、ついで奥羽地方を平定して、天下統一を果たした秀吉は朝鮮半島を通り、明国(中国)に遠征するという途方もない命令を全国の大名に発したのだ
3月に兼続も景勝に従い、5千の兵と共に遠征の前線である、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に出発した
6月に渡海を開始するが、名護屋在陣中、兵糧の到着が遅れ、石田三成に頼んで兵糧を借りるという一幕もあった
玄海灘を渡り、釜山(プサン)に上陸した上杉軍は熊川(ウンチョン)にて城普請の任にあたった
慣れぬ異国の地で体調を崩し、病に倒れる者が続出したが、翌年、完成した熊川城を小西行長に引継ぎ、帰国した
慶長3年(1598年)新年を伏見で迎えた景勝・兼続は新年のあいさつの為、秀吉に謁見した際、会津への転封を打診された
景勝は迷ったが、兼続の説得もあり、転封を受けた
80万石から120万石への加増となり、領地が拡がったわけだが、長年の領土である越後を離れる事になり、苦渋の選択であった
この転封の経緯は会津の前領主で豊臣政権の有力大名・蒲生氏郷の急死に伴い、奥州の伊達政宗、関東の徳川家康をけん制する役割を担う為に行われたものであった
さらに兼続は秀吉に器量を見込まれ、30万石で直臣になれと誘われたが、これを固辞し、景勝への忠義を貫いた
兼続は米沢6万石を景勝から与えられ、春には米沢城に入城し領国の経営に着手した
この年の8月、全国に激震が走る。太閤・秀吉の死亡である
5月に床に伏せり、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝)に後継者・秀頼の事を託し、息を引き取った
これを境に激動の時代に突入していくのだった