慶長6年(1601年)孤立無援となった上杉景勝は家康に降伏した
兼続は上杉家の存続の為に奔走し、上杉に友好的な家康の側近・本多正信や榊原康政に口添えをお願いし、宇都宮城で対峙した結城秀康の「上杉の反逆の事実は疑わしい」という証言もあり、辛うじて改易を免れたが、米沢30万石に減封となり、4分の1の規模に縮小されてしまった
米沢に入った兼続は新田の開墾や治水事業を進め、藩の基盤を作りあげたのだった
慶長19年(1614年)家康が開いた江戸幕府は安定し始め、太平の世へと向かっていたが、大坂城の豊臣秀頼の処遇に頭を悩ませていた
太閤・秀吉の後継者である秀頼は反家康派の求心力となる恐れもあり、関白就任への可能性を残していた為に無視できない存在となっていた
家康は友好的対話を求め、豊臣恩顧の大名の取り成しもあり、二条城で会見し緊張は緩んだかに見えたが、浅野長政や加藤清正らの親豊臣派の大名が次々と亡くなると、豊臣家の孤立感が強まり、焦りから兵糧や浪人を集めたりと幕府との対立の構えを見せ始めた
家康は釈明を求め、妥協案として秀頼の国替えなどを進言したが、これを拒否し、合戦の準備を始め、家康も豊臣征伐を諸大名に宣言した
景勝は家康の命に従い、兵5千を率いて大坂城東側の鴫野に着陣した
鴫野には豊臣方2千の兵が柵を設けて待ち受け、更に1万を超える援軍を繰り出してきたが、兼続が密かに作らせていた9百もの大量の鉄砲を装備していた上杉勢が圧倒、鴫野の豊臣方を一掃し、更に北の今福に向かい、苦戦中の佐竹勢を救援し、豊臣方を敗走させた
上杉勢の目覚ましい活躍は大坂冬の陣随一の物で、家康をも唸らせ、諸大名も感嘆したという
後に大坂夏の陣で大坂城は落城、秀頼は自害し、戦乱の世は終わりを告げた
元和5年(1619年)兼続は病を押して景勝と供に5月に将軍・秀忠に随行し上洛する。9月に江戸に戻ると病状は悪化した
景勝を支え続け、米沢藩の基礎を築きあげた兼続は、惜しまれながら60歳の生涯を閉じた